【東京 ゲストトーク『シリア、愛の物語』: ショーン・マカリスター監督】

【東京 ゲストトーク『シリア、愛の物語』: ショーン・マカリスター監督】

10月8日、イタリア文化会館での『シリア、愛の物語』上映後、トークゲストとしてショーン・マカリスター監督がご登壇されました。司会はUNHCRの守屋由紀広報官が担当しました。

―まずドキュメンタリーの撮影についてお伺いしますが、映画に出てくる家族に寄り添うようにして5年間密着していたときは、どのような思いでいたのですか?また、監督の中での変化はありましたか?
(マカリスター監督)色々と難しい部分はありました。一緒にいることで思いが変わることもありました。最初にこの家族と出会ったのは妻のラグダが収監されていたときだったので、夫のアマルと子どもたちを助けようという気持ちでいました。助けることで自分も何か受け止めることができていたように思います。

撮影することによって、この家族を危険にさらしているという思いはありました。自分の中で複雑な気持ちはありましたが、皮肉なことですがそれだけの危険にさらすことが、この家族を難民としてフランスに再定住させるきっかけになったと考えています。

家族のその後ですが、妻のラグダはトルコからフランスのパリに戻って、週の半分は子どもたちと過ごしています。夫であったアマルは2カ月ほど前、映画でも紹介されていたフランス人の女性と結婚して、ラグダも結婚式に出席しました。この結婚式は”革命的な”出来事だったといえると思います。女の子のようだったボブ(2人の子ども)も見ての通り、髪の毛を短く切ってだんだん男らしくなってきました。

<質疑応答>
―(会場からのご質問)映画を撮り終えようと思ったタイミングはなんだったのですか?

(マカリスター監督)撮影を始めたときはスポンサーもいないので撮影は自分一人で行っていました。取り続けるうちに「アラブの春」が到来、その後夫婦の物語にも急展開がありました。そして5年間も撮影し続けたのはこの夫婦に接することによって人間的な魅力に魅入られてしまったというのが大きいですね。また、私はこの映画をアマルから始まって、ラグダで終えるという展開にしたかったこともあって、ご覧いただいたタイミングで映画を撮り終えることにしました。

―(会場からのご質問)難民のことを考えると、アサド政権を打倒して民主化することが本当に国民の幸せに結びつくのかということを映画を見て改めて考えさせられました。フセイン政権やカダフィー政権の後を考えても、国民が幸せになっているようにはあまり思えないのですが、監督はどのようにお考えですか?また映画の中で、アマルが非常に流暢な英語を使っていましたし、ボブもフランス語や英語を話していたのですが、シリアの人は英語をどのように学ぶのですか?
(マカリスター監督)英語については、私もシリアやイラクなどで撮影していますが、多くの現地の人たちは英語を話すことができるのですが、やはりそれは教育システムが充実しているからだと思います。

民主化についての動きは一夜で起こることではないし、当事者でない私たちがどこまでそういったことに言及できるかというのは非常に難しいことであると思いますが、「アラブの春」でも民主化がうまくいったのは本当に最初(チュニジア)だけだったのではないかと思います。

―(会場からのご質問)アマルとラグダが仲が悪くなっていても撮り続けていましたが、2人は撮影を許可したことを後悔はしていなかったですか?
(マカリスター監督)2人とも後悔していましたよ(笑)。私もドキュメンタリー作家として、撮らなければいけない自分の責任というものがあったので、撮るなといわれても無理やり撮っていった部分はありました。例えば、アマルとラグダが喧嘩してパソコンを投げるぞ!っていうシーンのとき、実はアマルが撮るなと言ったんです。

でも、映画を作り終えてからアマルがあのシーンを見たときに、「あのシーンは素晴らしかった。ショーンが僕の言う通りにしなくてよかった」と言ってくれました。

―(会場からのご質問)どうやってアマルを見つけたのですか?映画を撮っていた中で、アマルとラグダから監督のせいで夫婦関係が悪くなったと非難されたことはありましたか?
(マカリスター監督)アマルたちを見つけるまで実は7カ月もかかりました。自分はこういう作品を撮る前は、なるべくその土地に住み、その土地に住む人がどういう人であるかを理解した上で撮影します。

アマルは友達の友達のまた友達の紹介で出会いました。アマルの方から自分を撮ってほしいと言ってきたんです。ただ、アマルを撮ることを友達に伝えたら、あの家族だけはやめておけと言われましたよ。それくらい、周りから注目されていた家族でしたね。

夫婦から撮影をとがめられたことは一度もなかったですね。むしろ、私が牢屋に入れられたことに心を痛めてくれたほどです。彼らが本当に怒りを抱いているのはアサドだけです。

―(会場からのご質問)監督自身は喫煙者ですか?
(マカリスター監督)この映画の中でも夫婦はずっと煙草を吸ってますし、日本の山形で撮影した『ナオキ』という作品がありますが、そこの夫婦もヘビースモーカーだったので、たまに新鮮な空気が吸いたいなと思うことはありましたね。でも、私自身以前は愛煙家だったので、煙草の煙に関しては一切問題なかったです。

―(会場からのご質問)アマルとラグダは、ボブの新しいフランス人としてのアイデンティティに関してどう思っているのですか?安全を勝ち得るためにアイデンティティが犠牲になると考えていますか?
(マカリスター監督)これはラグダが収監されていたときに聞いた話なのですが、アマルはもともとパレスチナ人なんです。そういうバックグラウンドもあるからか、西に対する憧れがあって、西に定住したいと考えていたようですね。犠牲を払って得た安全というのはうまく彼らも受け止めていると思います。ただ、一つ問題があるとすれば、ボブがアラビア語を忘れ始めていることに、アマルは少し困っているみたいですね。

―(会場からのご質問)日本は来年2017年からシリア難民の学生150人を受け入れると発表していますが、留学生ということで彼らはどのように日本社会に馴染んでいくと思いますか?
(マカリスター監督)おそらく彼らはうまく社会に馴染んでいくと思いますよ。アマルとラグダの子どもたちもそうなんですが、見てはいけないような大きなトラウマ体験をしても、子どもたちっていうのは本当に強靭な心を持っていて、与えられた環境にうまく適応する能力を持っているんですね。

さきほどコンビニに行ってきたのですが、そこの店員さんが2年前に日本にやってきたネパール人の留学生でした。本当にうまく社会に適応しているように見えましたし、これから日本に来るシリア難民の学生150人もきっとうまくいくのではないかと思います。

―(会場からのご質問)母(ラグダ)を動かしたものとはなんだったのでしょうか?監督にとって祖国とはどのようなものですか?
(マカリスター監督)私自身もラグダの強さがどこから来ているのかは不確かです。ただ、ラグダは19、20歳のころから、刑務所に入れられてたんです。そういった厳しい経験が強さに結びついているのではないかと思います。彼女は本当に特別な女性だと思いますね。

祖国に関しての質問はとても難しいものだと思います。新しいところで、新しい生活を送るということですが、例えばアメリカは移民の人たちでできているような国です。イラクで撮影することがあったのですが、そこで出会った人たちの中でその後アメリカに移り住んだ人もいます。バグダッドがどんなに危険なところだと分かっていても帰りたいと言っていましたね。

やはり多くの人たちにとって生まれた土地、故郷っていうのは、永遠にその人にとってのホームなのではないかと思います。新しい地で新しい生活を送るとしても、故郷というのは自分が生まれたところで、そこに帰りたいと思っている人がたくさんいると思います。

―(会場からのご質問)拘束されて捕まってしまったとき、監督はどのような気持ちでいたのですか?また捕まってまでも、世の中にこういう作品をアウトプットしようと思う信念はどこから来ているのですか?
(マカリスター監督)こういう撮影をする上で警護班をつける人もいると思うんですが、自分は一切つけないです。なぜならば、自分の撮影の対象者が、どこが安全かということを一番よくわかっているからです。また、ニュースでは毎日戦争のことについて報道されていますが、家庭の中でどういったことが起きているかということはまったく報道されません。私は戦争や内戦が一家庭にどのような影響を与えているかということを伝えていきたいと思ってますし、これからも目を向けていきたいと思っています。

PROFILE
ショーン・マカリスター監督
1965年、英国ヨークシャーのキングストン・アポン・ハル生まれ。映画監督・撮影監督。主な映画作品に『Working For The Enemy』(1997)『The Minders』(1998)『The Liberace Of Baghdad』(2004)『ナオキ』(Japan: A Story Of Love and Hate, 2008)『The Reluctant Revolutionary』 (2012)『気乗りのしない革命家』(The Reluctant Revolutionary, 2012) がある。『シリア、愛の物語』は2015年シェフィールド・ドキュメンタリー映画祭で審査員大賞を受賞。常に観客にひらめきや驚きを与え、魅了する作品の制作を行っている。

Photo:UNHCR