【札幌 ゲストトーク『シリア、愛の物語』: JICA武藤亜子さん】

【札幌 ゲストトーク『シリア、愛の物語』: JICA武藤亜子さん】

9月24日、札幌プラザ2・5で『シリア、愛の物語』上映後、JICA主任研究員の武藤亜子さんにご登壇頂き、トークイベントをおこないました。司会はUNHCRの河原直美が担当しました。

― 武藤さんは1995年から1998年までJICAシリア事務所にお勤めでしたが、この作品をご覧になってどのように感じられましたか?

映画を観ながら、私が滞在していた当時のダマスカスの様子を思い出していました。当時ダマスカスは平和で安全で、人々があたたかったのが印象に残っています。映画の中にも出てきましたが、食事も美味しく、歴史も豊かで、街並みが大変美しかったです。ダマスカスには旧市街と新市街の2つがありましたが、特に旧市街には聖書にも登場した「まっすぐな道」と呼ばれる場所や、8世紀頃に建てられたイスラム教のモスクがあるなど歴史が深いんです。

― メディアでは紛争で荒廃したシリアの街並みがよく伝えられますが、そのような豊かな生活のある地域だったことを改めて考えさせられます。この作品の中でアマルとラグダは家族とともにシリアのタルトゥースからダマスカス、べイルート、トルコのガジアンテップへと避難していきますが、それぞれの地域について教えていただけますか

まず、映画の冒頭にパルミラという地名が出てきます。パルミラはちょうどシリア中央に位置します。首都ダマスカスから砂漠地帯を2時間半から3時間位車で行ったところにあるのですが、ここには世界遺産にも登録されているローマ時代のパルミラ遺跡(神殿跡や円形劇場など)があります。残念なことに、この遺跡にあるベル神殿は今年ISに破壊されてしまいました。

一家はそのあと地中海に面した港町であるタルトゥースへと移動します。ここにはダマスカスでは見かけない小さな魚市場などがあります。補足ですが、シリアはダマスカスから北のアレッポへと幹線道路でつながっており、さらにその先はトルコへとのびています。そして南はヨルダンの首都アンマンへとつながっています。西半分は平野と山、東は小麦、棉花の栽培、油田などの地帯があります。

アマルとラグダたちはそのあとタルトゥースからダマスカス南部にあるヤルムークキャンプへと移動します。おそらくタルトゥースからホムスを通ってそこから南下してダマスカスに向かったのだろうと想像します。実はタルトゥースとホムスの間にはシュバリエ城という城があり、これは宮崎駿監督の『天空の城ラピュタ』のモデルになったとも言われている美しい城です。

一家はその後、ダマスカスからレバノンのベイルートへ向かいますが、ダマスカスからレバノン国境までの距離は車で1時間ほど、さらにレバノン国境からベイルートまでは2時間位です。近いように感じるかもしれませんが、2000m級の山脈を越えなければならないので大変です。一家もそのようなルートでベイルートへと移動したのではないかと思います。

ベイルートは中東のパリと呼ばれ、多くの人にとって憧れの地です。地図で確認して頂くとお分かり頂けると思うのですが、中東と欧州は実はすごく近いんです。ベイルートや当時のダマスカスからパリへは飛行機が飛んでおり、所要時間も4、5時間です。地理的にも、歴史的にも文化的にも、互いに長く古い付き合いのある国同士だと言えます。特にベイルートの第二外国語はフランス語なので、一家がパリへと移動したのはある意味自然な流れだと感じました。

映画では、ラグダがトルコのガジアンテップへと移動します。イスタンブールからガジアンテップまでは飛行機で1時間半位、アンカラからは1時間位の距離にあります。

ガジアンテップは現在シリアの反政府勢力の拠点の1つになっています。援助関係者もここを拠点にシリア国内への支援を実施しています。そのようなこともあり、ガジアンテップは人口が増え、経済的にも活況を呈していると言えます。

― 一家がどういう道をたどったのかがよくわかりました。シリア紛争は2011年に始まりましたが、その後どのように拡大してきたのでしょうか

2000年に大統領に就任したアサド大統領は、様々な改革を目指していました。でも2011年に騒動があった時期は干ばつがあったり、為替政策がうまくいかなかったりとシリア国内は困難な状況に直面していました。

2011年デモに対する治安部隊の発砲をきっかけに、闘争は一気に全国へと拡大しました。シリアという国の地理的な要素や、油田の存在などもあり、湾岸諸国やトルコといった諸外国が早い段階で政治的介入を試みました。政府側と反政府側どちらを支持するのかを表明するなど、シリア国内で起きている内戦でありながら、諸外国が全面に出てくるようになったのです。

2012年6月には停戦を求める「ジュネーブ合意」が作られました。翌2013年にはヒズボラがアサド政権を支援する側へとつき、加えてロシアも政権支持の立場を維持しています。2014年 「ジュネーブⅡ」が開かれたものの大きな進展はなく、この年の6月には過激派組織ISが「ラッカはイスラム国の首都である」と主張しました。その後アメリカを中心とする有志連合がISの拠点を空爆したり、それに対してロシアが対抗したりと、一国の内戦から国際紛争へと徐々に拡大を続けてきました。

― 複雑化したシリア紛争をどのように解決していくか難しい課題だと感じます。武藤さんは2012年から最近までJICAヨルダン事務所に勤務していらっしゃいましたが、今の状況をどのように感じていますか

シリア支援をしたくてもシリア国内には入れないので、ベイルートで関係者と面会するという形で活動を進めていました。情報収集や、シリア難民支援にも一部関わっていました。ヨルダンやレバノン、トルコといったシリアの周辺国は難民受け入れに関しては、キャパシティを超えてなお受け入れようとしてる努力がすごいと感じています。レバノンは人口の4人に1人が難民、ヨルダンも人口の1割近くの難民がいます。トルコも自国の予算で国境に25ヶ所の難民キャンプを設営しています。

このように政府による努力がなされる一方で、実際に受け入れている側は複雑な思いを抱えているように感じます。同胞であるシリアの人々をなんとかして助けたいという思いがあっても、受け入れコミュニティでは学校の数が足りないなどの課題に直面します。難民を常にあたたかい気持ちで受け入れられるかというと、実際には困難なことも多いのです。難民の避難生活が長期化すればするほどその状況が深刻になると予想されるので今の状況を懸念しています。

PROFILE
武藤亜子(むとう あこ) JICA主任研究員

大学・大学院で中東の歴史を専攻
1992年4月にJICA(国際協力事業団、当時)に入団
1995年から3年ほど、JICAシリア事務所で勤務(現大統領の父大統領の時代、シリアの首都ダマスカスに在住)その後はJICAのいろいろな部署に配属となり、アフリカ・中東・欧州部(当時)でシリアの国担当、横浜センターで中東向け幼児教育研修の立ち上げにかかわる。2012年2月から2016年4月まで、JICAヨルダン事務所次長として勤務。シリア危機対応にかかわる。2016年5月からJICA研究所 平和と開発領域の主任研究員。紛争・災害の予防・復興にかかわる研究に従事。

Photo:UNHCR